◎  あの世に持って行けるのは御神徳以外にない。。  身に徳(御神徳)を受ける修行。。。
  教祖の神様は御神徳を受けて行く道を教えておられる。為には成り行きを大事にし  て行けと。
    御理解56節引用。五徳(金・物・健康・人の徳)。
    神様の御信用を頂く為には、本心の玉を研く以外にない。日々の改まりが第一。
    竹内長次先生の話。

昭和四十四年六月十日 月例祭


 神様には神様の御都合がある。私共には私共の都合が、その私共の都合がある。ところがなかなか都合よういかんのである。そこんところから、信心が始められる。都合よういきますようにという。ところが今、申しますように神様には神様の御都合がある。そこで信心が段々分からしてもらい、信心を進めて参りますと、私共の都合ということは言うておってはいけないこと。私共の都合を言うておったんでは、本当のおかげが受けられない事が分かってくる。そこからが私は本当の信心が出来るのだ、とこう思う。自分の都合をつけて頂く為に、お参りをしておると、信心をしておるという間は、本当の信心は出来んと、私は思う。自分の都合をつけて頂く為に、ところがこの神様はそこんところを願うて参りますとおかげを下さるんです、ね。ですから、もう、そのことだけで一生を終わっていくという人もたくさんあるのです。お願いをしておかげを受けるというのである。ね、ところがそれではね、ギリギリのところ、馬鹿らしいん。そういう信心では。ね。
 今日、前講を久富さんが努めておりました。その中にも久し振りで朝の御祈念を頂いた。ほんとにここに一杯の人達が、もう朝の四時、五時になると一杯に詰め掛けて、御祈念を頂いておる。最近無信心になっておる自分が恥ずかしいぐらいに思うた。そういう例えば信心の雰囲気の中からお互いの信心が始められる。皆さんもご承知のようになかなか久富さんはここでも実意丁寧な信心をしておる人なんだと、まあいうならば、私の一番、初めのじぶんから、私の信心を知っており、また私の信心についてきておる人であります。当時、久保山先生、秋永先生、正あきさんと、私を桃太郎さんに例えるなら、犬、猿、きじだというぐらいにもうこの三人はどこ行っても、影の形のようについて回られた人なのです。ま、いうなら、ここでいうなら私の信心を一番、身近かに一番分かっておらなければならない人達であります。  
  またそういう意味合いで私しゃ、まーその三人を久保山先生は、これ、かげられましたけれども、秋永先生にしろ正あきさんにしろ、まあ私の信心を一番知っておる人達だと私は思っとります。ね、そこで今朝の例えば、お参りをして今日のお話を自分がしておりましたように、もうほんとに勿体ないほどに信心が出来ませんのに、おかげだけはこのように頂いておる、とこういうのである。
 先日からも、う~ん、少しばかりの土地の買い物があったから買っておった。1年半前に。それが、どうでもこうでも分けてくれという。しかもそれが三倍にもなった。まあ金にして四〇〇万余りを、ころっといわば、儲かった。それだけのことじゃない、事業のうえにもじつに神ながらなお繰り合わせを頂いておる。もちろんですから、ここでは御用の頂き柱と、言われるくらいに御用だけは一生懸命に頂いておる。ね、今朝もそのお届けをされる中に、「先生、この調子で参りますと甘木の平田さんくらいにはすぐおかげ頂きますと。」まあ皆さんもご承知のとおり甘木の平田さんといや、まあ甘木の信者というよりも、もう教団のご信者と、金光教の全般にその名が通っておるほどしの、まあ信者であります。たいへんなおかげを受けて、まあ、お道の御用を一途にああしておかげを頂いておられる方である。金銭のうえにも健康のうえにも、ね、いろんな意味合いでおかげを頂いておられる。金なんかも自分で計算したことなかけれども、どのくらいあるか分からんくらいに、まあいわばおかげを受けておられる。ね、ですからけれども、先生、この調子で参りますと、その甘木の平田さんのようにもなれるとこういう。それで私が申しました。「あんた、ばかんごつばかり言うね」ちゅうて、「平田さんがあんた最高ちゅうわけじゃなか、まあだ三井もおりゃ三菱もおるばってん金光様の信心じゃなかよ。」という意味のことをです、ね。「しかもマサアキさん、それがねえ、ただ一代仏に終わちゃつまらんと。随分、私共が知っとる先輩の中には、もうそれこそ飛ぶ鳥を落とすようなご比礼を受けたり、それこそ人がたまがるようなおかげを受けた人は、また御用にも立って来た人はたくさんあるけれどもね、それが本当の、いわば御神徳になっていない。ね、御神徳にならなければね、いかん。御神徳にならなければあの世には持っていかれん。
 この世ではやはり、金の徳もありゃ物の徳もある。健康の徳もある。ね、または人の徳もある。いかにね、人の徳を受けても物の徳を受けても金の徳を無尽蔵に頂いても、その金の徳というものやら物の徳というものやら、人間の徳という人徳といったようなものはね、あの世には持って行かれんのだ。ね、せっかくおかげを頂くのなら無尽蔵につながるもの、いうなら、親の代から子の代、子の代からまた孫の代までも伝わっていくもの、いうならあの世にも持って行けこの世にも残しておけるというものを、作っとかにゃいけん。というてまあ私しゃ、天理教の例を取って話したんです。ね、
 天理。天の理ということは、天理教といわば、理屈の理が書いてありますね。理論の理が、けれども天理教というのはどこまでもやはり天利教ですよね。利益の利です。天利教。ね、だからね、そういうおかげを頂くだけなら天利教が良い。ね、それはもう実にまあいうなら計算ずくである。病気もお金のお供えすりゃようなる。事業も発展する。商売も繁盛する。ちびちびしたもんんじゃちびちびしたおかげ。がばっといきゃがばっとおかげが頂けられる。もう確かにそれをですね、もう整然として理屈で説いてある訳なんです。だから本当におかげ頂く、それなら、ね、最近教団でも言われておる、御用すりゃ助かる。信心は御用なり。といったようなことをいうけれどもね、なるほど御用すりゃ助かるのが天理だ。ね、
 けれどもね、教祖様は天理も説かれたに違いはないけれども、ね、地の理を説かれたんだと、またご自身の信心態度もやはり地の理であった。地の理というのは、地の利がよいという、あの利じゃないです。地の理ちゅうのは天理教の理です、ね、天理の理です。地の理です。ね、地の理を分からしてもらわなにゃいけん。ね、それがどういうことになるのかと、それを私は今日は御理解五十六節からお話さして頂いた。ね、神参りをするのに、雨が降るから風が吹くからえらい大義と思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。ね、神参りをするのに雨が降るから風が吹くからえらい、又は、大義と思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ、私はここんところをです、最近あまり説く人がない、これは金光教のいうなら独壇場なんだ。ほんというたら。ね、御用すりゃ助かる、御用すりゃ助かる、確かに御用する人は助かっていますよ。けれどもそれはどこまでも天理教的である。ね、
 けれどもやはりお互いの魅力はそれですよねえ。お金のおかげも頂きたい。ね、物の徳も受けたい。ね、もちろん健康のおかげも頂きたい。けれども悲しいことには、金の徳やら物の徳やら人の徳やら、ただ、健康の徳だけではあの世には持って行かれんのだ。ね、この例えば、四つの徳がね、天理でおかげ頂かれる。ね、いわゆる、天理教ではそれをひのきしん。私はえらい天理教の事は詳しいことば言いよるけれど、昨日一昨日桜井先生が参ってみえて、バスの中である方がね、えー金光教の先生ちゃ知らんもんじゃから、あのこれをひとつ読んでみて下さい。というて一冊のパンフレットを渡された。それに徳と運命というパンフレットである。それを読まして頂いたから私が詳しく知っている訳。もうそれは実に誰でも分かるように噛んで含めるように、天の理が説いてある。ね、そして、その徳を受ければお互いの運命が立ち直るということが書いてある。もう実に魅力的な事である。お互い運命が立ち直らなきゃいけん。ね、だから、それはただ今も申しますように、ね、これはもう天の理だから、ね、たくさん食べる人はたくさん出さなければいけません。たくさん食べといてからすこしばっかり出さんと腸炎になる。ね、涼しい風が欲しいと思うなら、そこば一杯開けなけりゃいけない。ところが入らん。そうくさこっちの方ば開けとらんもんじゃから。こっちの方も開けると同時にこっちの方も開けなきゃいけん。風がすうっとと。ね、というようにです、なるほど、道理ですからお金でもそうです。ね、儲かったならばちょっとばっかりお供えせずにですね、もう儲かったならほんとにがぼーがぼお供えが出来るようにならにゃいかん。でなかったら次のおかげががぼーと入ってこんです。そのがぼがぼが大きくなっていきゃいいとです、だんだん。ね、だからお供えは決めちゃならんと私は申します。定めてもならん。ね、もちろんこまめてもいけん。という生き方なのだ。これはしかし、例えば、金銭なら金銭の徳を受ける事のために、度胸据えていっちょお供えしなきゃいけない。けれども教祖はそういうことはおっしゃっていない。むしろ、ね、お供えものとおかげとは付き物ではないとすら言うておられる。けれどもたくさんお供えしてはならんとはおっしゃっていない。ね、やはりたくさんのお供えがどんどん御用が出来るようなおかげを頂いてたくさんの御用がごろごろ出来るようにならにゃいけん。ただし、これはいくら御用頂いてもです、ね、どがしおかげ頂いても、それは金の徳なら金の徳だけにしかならん。
 これによってひと徳受けようと、ようそのこのご造営なんかが始まりますとね、そのご造営ならご造営によってひと徳受けようというようなことを言う人があります。なるほど、ひと徳受けるけれどもです、それは金をもってするから金の徳だけです。ね、それで病気ぐらい治るぶんぐらいのごとありましょう。運命が変わるくらいのことありましょう。けれどもね、それはあの世に持って行ける徳じゃないということ。
 今朝からも私皆さんに申しますように、ね、人間は五つの徳を身に受けなければ、人間の本当の幸せはないのだと。ね、いわゆる金の徳、物の徳、人の徳、健康の徳。それに神様の御徳を五つ受けなければいけん。その例えば健康のおかげを受ける為にはです、又は、物の徳を受ける為にはです、いわば天理を聞かしてもらえばです、そういう道理に沿うた生き方になりゃ誰でも金持ちになれるように、ちゃんとそういうシステムが天地の中には出来ておるのだ。けどもこれもなしには出来んのだ。またどっちかちゅうたらみんながそこんところにたいへんな魅力を持っているんだ。ここにお金さえあればと、そして、ここに健康が許されればと、ね、物があればというようにです、ね、また、人の徳を集めることに一生懸命なっておる人すらもあるのです。けれども人の徳じゃ、他の四つの徳ではね、あの世には持って行けない。ただ人徳でも積んどきゃね、お葬式の時なんかは、たくさん集まるかも知れませんよ。けれどもそのたくさん集まっとるとば、そんならみんな連れて行く訳にはいかんもん。それこそみんなが逃げておるぞである。あの世に持って行けるのは神様の御徳だけだ。いわゆる御神徳だけだ。
 教祖の神様はね、その御神徳を受けて行く道を教えておられるのです。ね、あの世にも持っていけれる、この世にも残しておける。だから、雨が降るから風が吹くからえらい大義と思うてはならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとおっしゃる、身に受ける徳というのは御神徳のことなんだ。ね、その御神徳をお互いが身に受けていくところの信心をさして頂く為に、どうでもひとつ地の理を分からしてもらわにゃいけん。教祖の生きられ方をマスターしなければいけないちゅ。ね、こういう場合教祖はどういう生き方をされたか。そこに私は金光大神があると思う。ね、金光大神の勉強というのはそこにある。
 だから、今日私、皆さんがね、そのおかげを頂くためと、ね、ではなくて、その根本になるもの、ね、その根本になるもの、神様のいわゆる御信用である、神様の御神徳を受けさせて頂くためには、ね、どういう信心をさして頂いたなら良いかと、それは天の理ではなくて地の理を学べと。地の理を身につけていけと。大地の心を自分の心に頂けと。雨が降るから風が吹くからえらい大義と思うてはならぬというのは、地の理を私は地の徳を受けて行くことだと思うです。ね、そこんところにです、信心はいよいよ本心の玉を研くものであり、日々の改まりが第一じゃと。ね、第一というてござる。もうお道の信心は本心の玉を研く以外にはないというてある。それに御用すりゃ助かる、御用すりゃ助かるばっかりいうようになってきた。いわば四つの徳を受けることには色々、お道でも説かれております。健康になるためお金持ちになるために、けれども神様のお徳を頂くということにはです、このごろあんまりいわんごつなった。本心の研くというようなことはいわんんこつなった。
 私は今度のお道の新聞を見せて頂いて、久方ぶりに、あーここに私の思いを同じゅうする人があると思うて、心強い思うたのである。この新聞をご覧になった方は、本心の玉を研くものぞや。という見出しで、一番初めに書いてある、竹内という人があります。この方はお道の教師であると同時に、大きな病院を経営しとられます。お道の御用のためならば、それこそもう、それこそお医者さんという大事な立場にあるのですけれども、もうどこまででもそのおいでて御用頂こうといわれる方なのだ。今度青年会で、えー何月ですか。九月ですか、福岡のどっか大きな会堂借りましてね、その先生がみえるんです。そん時ひとつみんなでお話頂きにいこうと思うとりますけれども、その方がです、もう現在お道で言われておるいろんなことやらはもう、一蹴するようにいうておられる。もう本心の玉を研く以外にはないと言うておられる。その総ての事が、本心の玉を研くものとして頂いていけというておられる。私がいうておることもそのことなんだ。そのことなんだ。神様の御信用を頂くというのは。ね、改まっていかなきゃならん。ね、いうならば自分の汚れを落としていかなければいけん。それが改まることなのだ。ね、それを様々な問題を通して、また問題を砥石ともさして頂いて、研いていかなければいけん、ね、
 そこでここでは、限りなく美しくならして頂こうという、いわば合言葉のような言葉が生まれたわけなんです。限りなく美しくならせて頂こうじゃないかと。そこには問題が問題でなくなって来る。問題がそこで解決する。お互いの汚いものが我情我欲が問題を作っておるのだから、こっちが本気で美しゅう成り切るなら問題が解決するのだ。ね、限りなく美しゅうならせて頂こうということの中身というか、内容というのは、まず美しゅうなるためには、まず垢ば落とさないかん。そうでしょうが、はあー汚れてまま上からいくら化粧したっちゃどど黒うしかならん。ね、やっぱ、垢ば落とさにゃにゃならん。それを私は改まると、こういうておる。まず改まって落とさにゃいけん。もう目の前に草があるとになんでん、踏み越えたり、もうこうこう押し分けちからいく人がある。もう自分の心の中にこれば改まらにゃならんこと分かっとるとばです、改まろうとしない、取ろうともしない。すぐ取られるとを取ろうとしない。落とそうとしない。そういうことでいくら御用頂いたっちゃですよ、おかげは頂いても、いわば今日言うところのおかげは受けられん。ね、心の雑草を本気で取り除こうという気にならにゃ。本気で垢を落とそうという気にならにゃ。
 今日、高橋さんところの職人さんが、二人で参って来た。一人の人はそのもう徳久というんですけれどもね、もう一家中がですね、どことまあ改まるところがなかろごたる人間的に立派なふうにしとってです、みんな。ところがおかげが受けられん。ところがなんとはなしにすばらしいそういうもの持っておりながらよい雰囲気作りきらん。そしたら神様からね、『心の中を顕微鏡で覗ぞいてみるとね、こういう汚いものがあるぞと、神の目から見るとこういう汚いものが、これから発散するから人が集まらんのだ、そういうよい雰囲気が作れんのだと夢の中ではっきりお知らせ頂いてるんです。』ね、ですからもう、徳久さんあんた自身しか分からん。又は、神様だけしかご承知じゃない。そういうものに取り組んでいかにゃいけん。というてね、その『いかのお知らせを頂いたと、大きないかじゃった。ね、だから、いかということは「いかん」ちゅうこっちゃ。もうこげなこつはいかんということはね、改めていくとそれがスルメになっていく。ね、それ干していかにゃいかん。スルメちゅうことは、いっちごしちゃいかんこといっちごスルメにならにゃいかんちゅうて今日、大笑いして聞きよった。
 いかんことは分かっとるとじゃもん。大きなものがあるとじゃもん。ね、その「いかん」、いかを取ってね、そしてそれを干し上げにゃいかん。もう干し上げるとこはちいっと辛か、苦しい。けれどもこれがスルメともなると、あの小味のあるような味わいのものになってくるように、ね、これはもういっちょごしちゃいけんということはしちゃならんのだけれども、それをそのやはりいつも犯しておるわけですね。』
 一人の人はね、こういう大きな寿司屋さんじゃから、やっぱりそのお知らせを頂くんです。いかとか、この人は『伊勢エビのお知らせを頂いた。ね、この人もなかなかいい人です。欲のない人です。もうそれこそがばがばお供えでん出来る人です。今度、高橋さん所でおりましたが、今、徳山の方へ行って職人さんしとる。それを今度一番大型のテレビを買うちからですね、向こうのご主人と一緒に高橋さん所に、それを持ってからわざわざ挨拶に昨日から来とります。ねえ、寿司屋の職人さんが元の店にですよ、大きなテレビを持ってから、というように欲得の無い人です。ところがこの人はもう何かちょっとしたことが起こって来ると、それを苦にしてから、もうその辛抱しきらんとです。伊勢エビのお知らせっていうのはね、辛抱強うならにゃいかんちゅうこと。ね、どこにおってもですね、生き生きとしてその例えば難儀なら難儀というものをね、対決していけれる、ひとつ信心をしないかん。
 伊勢エビというのはね、やはりその魚やの店頭でもう死んでしもうとっては値打ちが無いわけ、ね、魚やの店頭でも角というですか、足というですか、あれをこうこうやってそのいごかしよるところに値打ちがあるとじゃもん。そん為にはですね、あれは伊勢なら伊勢で釣れたエビが小さい箱の中に、生き絞められるというそうです。小さい箱の中に押し込められる、そして、<あらうの中に>一週間くらいほうり込められとる。もう窮屈な中でもう一生懸命ぐうぐういうごと辛抱しとる。そして、出されて荷造りをされて九州なら九州に送って来るから、魚やの店頭でも元気がよおしてこうしとる訳です。だから、生き絞められておる時にです、はあもうきついけん、ここを出ろというてそこから転々として店を変わっていくことではおかげ受けられんぞと、いうことなんです。ね、』
 今日の私が言おうとするところもそこなんです。そのいかのお知らせ、いかんと思うたら、いかをスルメにしていかにゃいけん。そして、様々な問題を以て、それをいよいよ研いた上にも研いて、それに化粧さしてもらうところに初めて美しさ麗しさというものが生まれて来るのだ。その美しい心、ね、そういう心に神様が要らんというても御徳を下さるのだ。いわゆる美しい人に神様の御信用が集まるのである。その神様の御信用を私は御神徳というておる。その、んなら御神徳を受ける為にです、私共がどうでもひとつ、ね、今こそ生き絞められておるのであろうかというような時でもです、ね、神参りするのに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うちゃならんと、いうことは信心をする者はと、信心を心にいつも向けておる者はということなんです。そこで私共日常生活の中にあっても、これが雨じゃろか、風じゃろかというようなことがあっても、それをじっと今こそ生き絞められておるんだと分からしてもらい。苦しいけれども有り難い。苦しいけれども、このようにして私を生き絞めておって下さる、修行さして下さってある、ほんとの力を与えておって下さってあるんだと、それを有り難く受けさして頂く信心。ね、そこから例えば、魚やの店頭にいわばこの動いておる伊勢エビが、その魚やの店頭で大将のようにしておるような、おかげを受けられる訳なんです。ね、
 それを今日は私は地の理というふうに聞いてもらいました。ね、黙ってしかも元気な心で生き生きと、しかもそれを苦しいけれども有り難いという御神意を分からしてもろうて、神様がこのようにして私を生き絞めておって下さるんだと。それは本当の晴れの舞台に立たして下さることの為になのだと。そこで今日私はマサアキさんに言ったようにですね、さあ今の調子でいってなら、甘木の平田さんのような大きなおかげを頂かして頂くことも有り難かろうけれども、四つの徳を身に受けて、そのおかげを頂いていったんじゃ、マサアキさん、二代には伝わらんばい、三代には伝わらんぞというのです。ね、信心辛抱が肝心なんだ。ね、それにはです、朝参りくらいなことは、それこそ平気どころか有り難く出来るようにならなければ、他の辛抱に耐えれるはずはなか。そうでしょうが。
 日常生活の中には、その朝参りくらいのこつじゃない、もっともっとひどいことが辛いことがあるんだ。神参りをするにはということも、信心する者は雨が降っても風が吹ってもです、それを有り難く受け抜かして頂く生き生きとした心というものをです、頂いていく為には朝参りぐらいの本気での修行が出来ずして、その修行が受けられるはずがないじゃないか。ね、
 それを信心辛抱と四神様は久留米の石橋先生に教えられた。「なあ、石橋さん、信心辛抱さえをしておれば、物事整わん事ない。」とおっしゃった。その信心辛抱の中には、そのような大変なことがあるのである。天の理もありましょうけれども、天の理なんかは別にひとつ置いといて、いわゆる地の理の方を、ね、大地がどのような汚いものを持っていかれても、黙って受けておるように、受けるだけではなくて、それを有り難いものとして与えておるように、ね、その地の理を悟らしてもろうて、その地の理を自分のものに頂いていく。そこに地の徳を自分の心に受けていく。そういう信心のうえに神様の御信用が動かないはずがない。神様の御信用そのままが御神徳である。その神徳を受けさせて頂かなければ、あの世には持っていかれんのである。この世にも残しておけんのである。その神徳こそが、日勝り月勝りであり、年勝りであり代勝りのおかげの受けられる約束を神様がしておって下さるのである。ね、手前の天の理を覚えて、そして、動き出すことに一生信心してこの世におかげを受けただけではです、それはあの世には持っていかれん。どがしこ金溜めたっちゃその金は持っていかれん。ね、健康の徳だってそうなんだ。もう死ぬときそりゃもうこの世にお返ししなきゃならんのだ。物の徳でも人の徳でも同じ事。ただ持っていかれるのは御神徳だけ、その御神徳はいよいよ地の心を心として、教祖様の生きられ方というのは、もうどこの隅々を見せて頂いても、ここんところに終始しとられるのである。ね、そこに天の理があり、地の理があり、その天地の理を私共、天地の心を心として、いうならば、天地の親神様の心を心としての信心が、兼ね備わっていかなければです、ほんとのお道の発展はないのだ。いかに御用する人がたくさんあったっちゃだめなんだ。もうその人一代なんだ。それはお金でどんどん御用すりゃお金持ちになるだけのことなんだ。ね、それはあの世には持っていけんのだ。
 三代金光様も、ね、「神信心には、辛抱することが一番大切でございます。」とおっしゃっとられます。神信心には辛抱することが一番大切なのだ。ね、それこそ黙って受けていくのだ。黙って与えていくのだ。そういう信心。それがなら本気でです、私共が改まらしてもらおう、研かしてもらおう、限りなく美しうならして頂こうというところに、焦点を置いておかんと黙って受けられん。黙って受けられても、与えられんて。ね、そこに初めて私は五徳が備わる。ね、五徳というのはそれこそどんなにぐるぐる沸きっとる火の中にでもこうやって差し込まれても、じっーと辛抱しとるような私しゃ信心辛抱の徳が必要なんだ。もうここでこう言うたら、こうしたらこれが楽になることが分かってるんだけれども、そこを辛抱さしてもらうということは、しかし、たいていのことではない。本気で教えを身に頂いていかなければ、いわゆる、教祖のいわば、生きられ方といったようなものをです、ね、本気で私共が頂いていかなければ、そのために私は言うておりますことは、成り行きを大事にしようというのである。ね、成り行きをいよいよ、大切にさして頂けと。まず手初めからそういう修行。そういうところから辛抱の味わいというものを、ひとつ分からしてもろうて、ね、ここんところをですね、辛抱さしてもらわゃ、先にはこういう喜びが楽しみがあるという体験が次々生まれて来るとね、辛抱することもまた楽しゅうなってくるんです。はあ、言わんでおって良かったという、良かったどころではない、有り難いということになってくるのである。
 私共でももう、ね、朝の四時から十二時まで座らしてもらう。こりゃ泣くごと眠か時もあるけれども、それば辛抱さしてもらやね、その先には、はあ、辛抱さしてもらっとって良かったぁ、というものを体験しとるから、立っちゃ馬鹿らしか。ねえ、ですから、辛抱、辛抱というその、ね、三代様おっしゃっとられるように、それこそ泣く泣く辛抱しいしいにと、こうおっしゃったが、その辛抱しよりましたら、欲しい物もなくなった。思うこともなくなった。そして、有り難うて有り難うてという心が開けてみえられた。というそこがあるんです。ね、だからそこに一旦触れさせて頂くと、泣く泣く辛抱するようなことの中には、このような有り難いものがあるんだと。ね、ほんとに我が身は神徳の中に生かされてある喜びはそこに感じられるのだと。ね、それでも尚且つ、ね、お礼の足りないお詫びばかりをしておりますとおっしゃるような謙虚な姿。もう大地の心というか、ね、もうほんとに大地の権化のようなお方であったと私は思うです。ね、どのような場合であってもへりくだっておられる。どのような場合であっても、ねえ、決してものを多くおっしゃらん。すべてのことが「ハイ、ハイ」で解決なさった。そして、心の内容というものは、有り難うて有り難うてであり、ね、同時にね、それでもお礼の足りないお詫びばかりをしておりますという。ねえ、とてもとても私は金光様の信心のすばらしさはね、そのへんにあるのです。
 それをあんまり教団あたりは御用すりゃ助からん、御用すりゃ助からんちゅうなら、そんならもう天理教に看板塗り替えたじゃよかじゃんの。ね、だけん、これではね、あの世には持っていかれんって。どこまでも教祖の生きられ方、御あられ方、教えておられるすべてのことがです、私共の信心の生活の糧にならしてもろうて、そのことを神習わして頂いてこそ初めてです、それを含めて信心辛抱というておられる。信心辛抱さえをしておればである。ね、なるほど平易な言葉ではあるけれども、ね、七十年間という長い間をもって分かられたこと、それは神信心に一番大切なものは辛抱だと、喝破しとられる。ね、神信心には辛抱することが一番大切でございますというとられる。ね、その辛抱こそが大地の徳を受けていくおかげの信心であると私は思うのです。ね、それを願いそれを頂いていくならばです、必ず金の徳も物の徳も人の徳も、もちろん健康の徳もこれは願わんでも頂けるものだと私は確信しておる。ね、ですからほんとに神様の御信用を頂くことの為の信心がなされなければいけません。そりゃ一生懸命拝んだところで、病気ぐらい治りますよ。ほんとに。ね、祈念力というんですよ。この木ば私が枯らそうと思うたら私が一週間ぐらい祈ったらこの木は枯れますよ。お互いの祈りの力というのはそのくらいのものがあるです。だから、祈り殺すなんていうでしょうが。あれはほんなこてです。けどもそげなことはしやしませんけれどもね、祈り殺すこたようなことはしませんけれどもです、祈って人は助けることはさしてもらうけれども、ただ、祈っただけで助けて頂いたらつまらんって。
 ただ今私が申しますようなことを教えて、それを分からして、そしてそこからその人自信が助かっていけれる。あの世にももっていけこの世にも残しておけれるというようなです、ね、信心の基礎、基本というものを今こそここで作っとかなければいけないということをね、分かって頂きたい、又は、それを御取次さして頂きたいと私は日夜それを思う。ね、それを私今日、マサアキさんにたった一言のことだけれども、「マサアキさん、平田さんだけ、平田を対象にしなさんな。まあだまあだ無尽蔵に限りのないおかげを頂く為の信心がここにあるじゃないか。」と言う訳ですよね。どうぞ